「あの時こうしていたら」と考えてしまうけど
過去を振り返り、あの時こうしていたら、と思うことがあります。
人生には何度も選択肢があって、意識的にも無意識的にも選ばなければ進めません。
では、過去においての違う選択をおこなっていた場合、今とは違うのかと考えると、そうも思えないところがあります。結局は行き着くところは同じなのではと思います。
映画「バタフライエフェクト」も、こんなテーマで主人公は過去をやり直しますが、事はうまく運ばれない、そんな話です。
他にも
ダン・アリエリー(2013)「予想どおりに不合理: 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」」早川書房
を読むと、かなり乱暴な要約ですが、人は合理的な選択をしたいのだが、社会においては相対的に効果が及ぶため、実質は不合理な選択をしていることがある、といったことです。
例えば、ネットで新聞購読の広告を下記の様におこないました。
① web版の購読は59ドル、
② 印刷版の購読は125ドル、そして、
③ web版+印刷版の購読は125ドル
と広告を打ちます。
すると、③web版+印刷版の購読を八割の人が選びました。
しかし、②を抜いて
① web版の購読は59ドル、
③ web版+印刷版の購読は125ドル
では、七割の人が①のweb版の購読59ドルを選んだそうです。
つまり、値段は変わっていないといった絶対的な事実があるにも関わらず、②の選択肢が増えたこと、また、この選択があたかもスケープゴートの役割となり③がお得に思えることで、人は合理的な判断を見失うのです。さらに、上記の提示手段には他者の思惑が介入しています。
このことは、「絶対的な事実」を「相対的な局面」では人は見失うことを示唆しています。
自分で選んだと思った選択でも、間接的に他者からの影響を受けて選択しているのだと思います。
孤独でも妄想と仮想世界でヒトは足りるらしい
ひとりの過ごし方のひとつは、妄想にふけることです。
歩きながらだったり、ソファーでくつろいでいるときだったりです。
そして、妄想の最たることは睡眠時の「良い夢」です。現実で足りないことを補った夢だと、夢ではあってもフラストレーションが解放されることもあります。
この夢や妄想といった仮想世界は、どうやら「必然」だったようです。
吉田 脩二(2008)「ヒトとサルのあいだ―精神(こころ)はいつ生まれたのか」文藝春秋
では、
脳が胎児のまま生まれるヒトは、脳神経系を生後の外界で形成するために、仮想の世界が必要であり、そこから精神が誕生したと仮説しています。
オラウータンと比較するとヒトは十か月も早産します。つまり、外界には誕生しても、身体も脳も、まだ胎児のままなのです。そこで必要になるのが、仮想世界で脳神経を形成していくことです。サルなどは出産時に既に形成された脳神経で外界の刺激に対して反応するのですが、ヒトは内側(仮想の世界)からの反応でも脳神経を形成できるようです。
つまり、孤独でひとり妄想をすることでも、我々ヒトにとっては足りるとも言えるでしょう。少し孤独が怖くなくなります。
日本の社畜とアメリカの奴隷制度
あるブログに奴隷制度について書いていました。奴隷というとネガティブなイメージが先行してしまいますが、こんな考えもあるのだと感心しました。
しごく簡単にまとめると、
アメリカ南北戦争時代の黒人奴隷の労働待遇とは
「生涯雇用の正社員」「社食あり」「社員寮あり」「身元を保証する社員証あり」の福利厚生の雇用条件だった。
なるほどと思いました。
では、労働条件はどうだったのかと
「流動する〈黒人〉コミュニティ アメリカ史を問う 樋口 映美 編」
を読んでみると、奴隷にとっては労働条件というよりも、家族と別れることにストレスを感じていたようです。たしかに、幼いころ親から引き離し、子どもが売られることは、まことに人道に反しています。そして、日本でも親が幼い子を売ることはあったことです。むしろ、事情はあるにせよ親が売るか、ただ商品として扱われるため親から引き離される、といった意味では違いがあるよう思います。
間違いなく言えることは、どちらも辛いことであり、許しがたいことです。そして、そんな時代であったのだと思います。
話を戻し、労働に関してですが、
奴隷を割安で働かすことは可能だけど、その場合はモチベーションが低くなります。そして、恐怖で縛れば精神を壊してしまうでしょう。
雇用する側も労働者に気をつけないと高額な買い物だけに無駄になってしまいます。なんでも、奴隷の値段は200万から2000万くらいだったそうです。雇用者も決して楽ではなかったと想像できます。
さらに、南北戦争について、「労働者を囲い込んで安く働かせる」という考え方が奴隷制であり、「必要な時だけ労働者を雇って要らなくなるとリストラしよう」というのが奴隷解放運動側の考え方だったといった見方もあるようです。
すると、奴隷解放運動側が勝利したわけなので、その文化「必要な時だけ労働者を雇って要らなくなるとリストラしよう」が、今日の日本にも波及しているのでしょう。黒人奴隷については、雇用者、労働者共に、なんだか今の日本を見ているようです。日本の「社畜」というのはうなずけます。
生きる価値
「生きるか価値があるのか」と自問自答することがあります。
答えは、おそらくNOです。これは、わたしに限ったことではなく、多くに命に共通しているのかとも思います。
例えが悪いのですが、犬や猫などのペットは、飼い主にとってはかけがえのない命です。でも、他人にしてみると、そうでもないと思います。仮に自分のペットと他人のペットの命を天秤にかけたとき、大概は自分のペットの命を優先すると思われます。そのペットですら、自分の命と天秤にかけたときときは、優先順位が出ると思います。自分が大事と思うかたもいれば、自分など生きる価値がないのでペットの命のほうが尊いと考えるかたもいると思います。
つまり、命の価値は絶対値ではなく、相対値によって決まるものです。
でも、思います。そこまで、むきになることでもないのかと。ただ生きている。そしてやがて死ぬ。それだけしか分からない、わたしなんぞに「生きる」ことなど語れません。
占いに意味はあるのか考えてみた
オカルトの類は、それを理由にする行動や、手段、手法が嫌いです。
でも、私はタロット占いをします。オカルトを信じているわけではありません。ただ、オカルトを否定はしていないだけです。
タロットは、不安解消やお酒の肴で自分を占います。一度に何回かやります。すると、偏りが起こることがあります。
近しいテーマで占うと、同じ位置に、同じカードが出ることがあります。大アルカナの22枚のカードを、テーブルに7枚並べるヘキサゴンスプレッドという展開方法なので、同じカードは1/3程度で出るのだと思うのですが、同じ位置に出るとなると22!×7!=(22×7)!(かな?)の確立になると思います。さらに、カードの正位置、逆位置を含むと、同じ様にカードが出る確率的は、大変低いのだと思います。
この偏りが未来予測の、そして、オカルトの魅力だと思います。
人が、未来予測をしたい理由のひとつに選択があります。我々が生きていくことは小さな選択の繰り返しともいえます。その多くは無意識の選択です。
要するに熟考するよりも、直感的に選んだ方が良い結果になることいったことです。ここでの注意点はランダムはダメといったことです。つまり、熟考できる情報は持ち合わせているが、あえて直感に従うことです。
しかし、これを意識的に行なうことは難しいです。そんなとき、タロットのような小道具は役に立ちます。
失恋がつらいのなら
辛い、辛い、辛いと心が痛がっています。
この痛みで頭が一杯になって、他のことがおろそかです。
つまり、痛みに自分がコントロールされています。
身体的な痛みも辛いですが、持病や大怪我でなければ、数週間で治ります。また、鎮痛剤もあります。
自分にはどうにもできないこと(失恋など)の心の痛みには、自分では解決できないのにコントロールされます。あまりに理不尽です。そこで、対処方法を考えてみました。
思いついたことで、すぐに実行できそうなのは上記でした。
結果
・酒は、よけいに心をこじらせる気がしました。
・精神安定剤は、ベンゾジアゼピン系の薬(デパス)を使いました。診療内科でなくとも、ほとんどの病院で処方してもらえます。そして、効きました。しかし、薬が切れると元に戻ります。怪我でいうところの鎮痛剤と同じです。治るまで使い続けられるようなら良いと思いました。
・タロット占いは、指先を使ったり頭を使ってリーディングをするので、けっこう紛らわすことができます。問題は、良いカードがでると変に期待していまい、現実と違い、さらに落ち込むことがあります。
・有酸素運動は、これが一番健全なのは間違いないです。そして効きます。ランナーズハイの様になれば脳がドーパミンやセロトニンを出し多幸感を感じます。問題は、いつでもどこでも、とはいかないことです。
・アファメーションは良いです。気軽にできるし、言葉に出した瞬間すっきりするものがあります。有酸素運動ほどではないですが、口に出すことでドーパミンやセロトニンが分泌されているような気がしました。
アファメーションについては、思い至るところがあります。
私は、つまらない嘘をたまにつきます。幼少の頃は泳げないのに、泳げると言ったり、受けてもいない試験に合格したと言いました。
泳ぎは、ぶっつけ本番でなぜか泳げました。試験も、実際に受験して合格しました。そんなこんなで、つまらない嘘で大風呂敷を広げても、なんとかなる、といった習慣がります。これは、嘘でもあったけど、行為自体にアファメーションと同様の効果があったのだと思います。
普通の人
「自分は社会に必要とされていない」と、そう思う人は、
おそらく、そうなのだろうと思います。
では、社会に必要とされる人って、どんな人だろうか?
思うに「普通の人」が、一番社会から需要があるんじゃないでしょうか。
仕事を例にあげると、雇用者からすれば、可もなく不可もなく働いてくれる人材はありがたいはずです。
「不可」はもちろんダメですが、必要以上な「可」は必要がないでしょう。
なぜなら、自分より優秀だと扱えない、また、必要以上にはりきられてもミスを誘発しそうで困ります。そんな新人さんは多いです。
だからなんだといったことではないですが、
「自分は社会に必要とされていない」そう思う人は、「普通の人」
ではないのかもしれません。良い意味でも、悪い意味でもです。